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ノリタケとは

オールドノリタケ

ノリタケ(Noritake)は日本の高級陶磁器及びメーカーです。日本初の国産白磁ディナーセットや欧米の嗜好・流行を捉えた、高品質の製品で人気を獲得し、今に続く世界的ブランドとなりました。
今回はノリタケの美しい陶磁器と共に、なぜノリタケの製品が世界に求められるものとなったのか、その歴史を紹介して行きたいと思います。

ノリタケの磁器製品の凄さとは?

美しくバラエティに富んだ装飾技法の数々

ノリタケ 金彩

主な技法には、絞り出した粘土で器表に立体柄を描く盛り上げに、その上に金彩を施す金盛りや点盛り(ビーディング)して色を付けた色点盛り・金点盛りと七宝的宝石光沢を得るエナメル盛りがあります。

また絵柄に立体的に表現する技法として、薬品や砂で器表を削り金彩の濃淡柄を得るクサラシ(エッチング)、大理石風の器胎に泥漿を塗りカメオ風浮彫を施すレリーフ、乾燥前の器胎に布を貼り織物的質感を得るタピストリー、粘土細工を貼り付ける貼り付けがあります。

その他にも、模様を印刷した紙を器表に貼り模様を写す転写、中東発祥の技法で油膜光沢を得るラスター彩、絵具を吹きつける吹きぼかし、コバルト化合物で深い青を得るコバルト、銀彩等、多種多様な技法が存在しています。

なお、絵付は素描(すがき)と呼ばれる手描き、成形はモールドと呼ばれる石膏割型が多用されます。

ティーカップから火鉢まで、多彩な品目数

また、ノリタケの器種には食器や花瓶・フィギュアリン・プレート(飾り皿)・ランプスタンド・ボンボニエール・小箱・茶器(ティーカップ・マグカップなど)・喫煙具・陶磁人形モリムラドール・火鉢・電傘などがあります。

ノリタケ 火鉢

伝統的図柄からアニメまで、様々な意匠を取り入れたデザイン

その様式には、浮彫のみの白磁、濃色地に色絵金彩を施すセーヴル風、青地にレリーフを施すウェッジウッド風、ボーンチャイナ(骨灰磁器)風の薔薇柄、東洋的花鳥画・風景等を描く染付や色絵、写実的細密画を描くロココ式、金彩まばゆいアンピール(皇帝)式

また、民族模様を利用したものも多くあり、ジャポニズムやシノワズリー、メルヘン柄、古代ギリシャやエジプト柄、インディアン柄、抽象的草花紋のアールヌーボー、シンプルかつ洗練された紋様のアールデコ、アニメ柄等の他、それらを融合したものもあります。

ボーンチャイナをはじめとするノリタケの代表作

ノリタケ カップ&ソーサー

代表作は、日本初の硬質白磁セット「セダン」のほか、伝統に現代の感性を加えた「アートコレクション」
西洋の名窯製品を独自に表現したシリーズ「ボーンチャイナ」、オールドノリタケの名品を現代風にアレンジした「オマージュ・コレクション」、ノリタケ100年の技と心を投入した最高峰シリーズ「マスターピース・コレクション」等があります。

世界的磁器メーカーとなるまでの、ノリタケの歴史

ノリタケのはじまり、民間貿易企業『日の出商会』

ノリタケ マーク

創業者・森村市左衛門は、明治9(1876)年、貿易による国利民福を志し、東京銀座に森村組を設立しました。
そして、志への助言を受けていた福沢諭吉の慶應義塾で学んだ15歳年下の異母弟・森村豊をニューヨークへ送り出し、現地での販売拠点「日の出商会」を設立します。

全資金を投じ、あえて政府の援助を受けずに始めた小さな一歩でしたが、幕末横浜での仕入れで出会った義弟の大倉孫兵衛が雑貨調達に才能を発揮し、順風の船出となりました。
同11年には増員して拠点名を「モリムラブラザーズ」に変更し、翌年には福沢が推薦した村井保固(やすかた)が豊の補佐役として渡米します。

海外のニーズを鋭い感度で捉え、日本屈指の商社に

その後も発展を続け、同15年には村井の案により小売りから卸売りに転換しました。陶磁器が主力化した17年からは各地の窯と提携した注文生産や商品設計も始めました。
豊は書状で日本と交信し、製品への現地嗜好の反映や改良を行ない店の評判を高めます。現地要望を絶対視するその方針は「米状神聖」の言葉で語り継がれました。

ノリタケが取り組んだ国産ボーンチャイナへの挑戦

洋風陶磁器への転換

明治26(1893)年には器地の提携生産も始めますが、万博等の視察で日本風意匠の限界を感じた大倉孫兵衛の案により、洋画絵付等を導入した洋風陶磁器への転換が進められます。

オールドノリタケ プレート
そして、同28年にはモリムラブラザーズに図案部が置かれ現地や世界の流行を採り入れた意匠設計が始まりました。
そして翌年には、洋食器の王道・白色硬質磁器・ボーンチャイナの製造も検討されることとなりました。
のちのノリタケを育てた森村組は短期間で日本屈指の商社となりモリムラブラザーズも移転を繰り返さざるを得ないほど発展しますが、同32年に豊が46歳の若さで急逝します。

現在も続く則武の地での、ノリタケブランド陶磁器製造のはじまり

豊の無念も果たすべく、市左衛門は更なる発展を図り、先に絵付・器地生産を集約していた名古屋での工場建設を決めました。
そしてそれに先立ち明治37年に孫兵衛の子・大倉和親(かずちか)を社長とする日本陶器合名会社を工場用地の則武に設立します。
現在まで続く本社所在地、名古屋市中村区則武でのノリタケブランドの誕生となりました。

ボーンチャイナ製造の夢を叶えたノリタケ

自社工場が稼働し、ファンシーウェアと呼ばれる花瓶や置物等の従来品製造に弾みがつきましたが、純白磁器製造という豊が残した課題は難航し成功しません。

オールドノリタケ 鉢

ファンシーウェアは、金彩や写実的な草花が描かれる等、手間をかけて作られた意匠の凝ったシリーズの総称。

結局20年をかけた大正2(1913)年に漸く成功し、日本初の白磁ディナーセットとして輸出され好評を得ました。
やがてディナーセットが主力となり、世界的洋食器ブランドとして認知されます。

確かな技術力を手に入れ、世界で認められるメーカーに成長したノリタケカンパニー

オールドノリタケ ポット 

その後も順調に発展し、製品は世界中に輸出されノリタケの名を広めました。
大正6年には日本陶器株式会社となり、陶磁器製造で培った技術により多くの事業を派生させ、昭和56(1981)年に現社名のノリタケカンパニーリミテドとなりました。
世界市場に挑んだ経験によって、ノリタケ製品の品格や品質の水準は非常に高いものとなっていました。
その技術を物語るように、ノリタケの製品には高度な技術を用いた、非常に均整の取れた形状の物が、次々と生産されて行きました。

長い歴史の中で戦争の影響や食器事業の比率低下等も経験しますが、技と志を継承し、今も内外で愛好されています。

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